妻への感謝(2)

家の建て替えでは、妻がモデルハウスを抽選で引き当ててくれました。

おかげであまり無理なく、満足できる家に住むことが出来ました。

築30年になりますが、亡くなる前に、キッチンとトイレをリフォームしておいてくれました。

冷蔵庫も買い替えておいてくれました。衣類など身の回り品も整えてくれてあり、今購入するものは食料品程度です。

後半こそ、妻の主導で外食するようになりましたが、以前は、家で食事をし、それも朝は7時、昼は12時、夜は6時と決めつけていました。

妻に癌が見つかり、手術後の抗がん剤治療で苦しくても、通院帰りに食材を買い、徒歩6分の駅まで私に食材を取りに来させてでも、料理を作ってくれました。再入院するまでつらい体に鞭打って料理を出してくれました。逝く身なのに、料理の出来ない、残る私を心配して、宅食を手配しておいてくれました。みそ汁の作り方も教えてくれました。

妻は、2017年3月9日に亡くなりました。68歳という若さでした。

妻は、3人姉弟妹の長女として、弟、妹の相談に乗り、面倒を見ていました。

今は、私が2人に気をかけて貰っています。

私のような何の取り柄も無い人間が曲がりなりにも何とか今まで何とか過ごせてこれたのも、妻の支えが有ったからと改めて認識しています。あー、妻との人生やり直したい! 妻にもっと楽しい人生を過ごさせてやりたかった!好きな創作帽子をもっとやらせてあげたかった!

 

妻への感謝(1)

妻は1948年11月生まれで、学校卒業したばかりの21歳の若さで、私に嫁いでくれました。私が1941年5月生まれ、29歳、7.5歳の年齢差でした。

そんな彼女に、私は仕事で忙しいという理由で、新婚旅行の計画を立てさせたりしました。結婚しても高校、大学の奨学金の支払が私の給料では苦しいため、自発的にパートで働き家計をカバーしてくれました。

結婚5年目で待望の娘が生まれた当時、私はイラン、イラク、東独等長期海外出張で留守がちでしたが、良く留守を守り、大事に愛情込めて娘を育ててくれました。また、エアメールで良く近況を知らせてくれましたが多忙を理由にあまり返事は出しませんでした。

私が定年2年前に、中小企業診断士社会保険労務士保有資格活用のため退社するか迷った時、娘も結婚が決まった時でもあり、2人だけなら何とかなると背中を押してくれました。

私が独立した時、請求書の発行、確定申告等妻に任せてしまいました。

また、自発的に運転免許を取り、最寄り駅までの送迎等をしてくれました。また、ホームヘルパー2級の資格を取っていました。年齢差から言って当然先に逝くだろう私の介護をしてくれるつもりだったと思います。

そんな中でも、妻は、洋裁、和裁ともに得意で頼まれて教室を開いたり、2週間ほど喫茶店を借り切って創作帽子店を開催したりしました。評判が良く、即売で結構売れて借り切り料を払っても利益が出ると楽しんでいました。

退職後、提案して年1回海外旅行を楽しみました。ニュージーランド、中国、台湾に行きました。ところが、妻の実家に家族で行った留守中に娘の下着泥棒に入られました。それをきっかけに犬を飼うようになり、妻が可愛がったため、犬を置いて宿泊旅行には行けないということで、犬が亡くなるまで、二人一緒の宿泊旅行はお預けになりました。犬が亡くなってからの二人一緒の宿泊旅行は、小豆島、沖縄、北海道、イタリアが最後になりました。尤も、ツアーのサービス内容について、私がぶつついたりするので私との旅行はあまり楽しくなかったようですが。

その後は、もっぱら私一人での国内旅行のみとなり、年を取ると体力的に海外旅行はできなくなるからと妻に勧められて、スリランカに行ったのが私にとって最後の海外旅行になりました。妻は、フアンクラブに参加しての中国・大連が最後の海外旅行になりました。

師の恩(2)

今は、いじめが社会問題になっていますが、私も疎開者でよそもんでいじめの対象になっても良い筈ですが、いじめを受けたことも見たこともなかったですね。

昔は、皆おおらかだったせいなのでしょうか? 

ところで、高校への進学を許されても試験に合格しなければ話にならないので、それから慌てて受験勉強を始めました。高校卒業後、就職するのであれば、技術を身につけておいた方が良いと考え、工業高校を目指しなんとか合格しました。一般教育の他に、製図、工場実習などの教育を受けながら高校卒業が近づいた頃、今度は担任の先生が突然家に来て同じように奨学金が下りたら学費はかからないので大学に進学させてやって欲しいと親を説得しました。前回と同様、私には事前に話は無しでした。それから慌てて受験勉強を始め、私に理工系が向いているかはわかりませんが、工業高校での教育の延長で、工学部を目指し、普通高校生に比べ一般教育時間が短いので心配しましたが、なんとか合格することが出来ました。早稲田大学教授夫人である父の姉から早稲田大学への入学を勧められましたが、費用の面で自宅通学のできる地元の国立大学にしました。

大学卒業が近づき、就職希望先の提出で、特に希望先がなかったので、相談した親類の人が勧めるK鉄工を希望したら、それを聞いた卒研の先生から君には向かない、推薦状を書くからM電機に行きなさいと勧められました。

要所、要所でいろいろ先生にご支援を頂きました。それに対し、何も報いることが出来ず、人生を終えようとしていることは本当に申し訳ないことです。

あちらでお会いできたらお詫びしたい。

 

師の恩(1)

老い先が短くなると、昔の事が思い出されます。中でも私の場合は、先生にお世話になったことが色々思い出されます。

私の家は貧乏でした。父は東京で毎日新聞で働いていましたが、結核を患い、戦争中もあって、田舎に疎開しました。戦後、父母が2人で八百屋を始めましたが、なかなか軌道に乗らず、苦労しました。給食費が期日までに払えず、時々遅れることがありました。その間は、先生が黙って立て替えてくれました。それだけでなく、修学旅行も欠席届を出したら、先生が費用を払って参加させてくれました。

中学校を卒業したら、当然、就職する予定でした。日立製作所に給料を貰いながら、勉強もできる中卒者の工員養成校があり、生徒数人で受験した夜、引率してくれた体育の先生が、突然、家に来て、学費は奨学金が下りれば賄えるのでぜひ私を高校に進学させてやって欲しいと親を説得してくれました。(私は体育が苦手で、先生の覚えは良くない筈なのですが。また、何故受験した夜だったのか疑問ですが。)

 

失神

今年、奇病にかかりました。3月に入って時々、頭に急激に血が上って数秒で治まるけど、その間、何かに摑まらないと、立っていられないようになり、また、後頭部が熱くなりました。医者に相談しても、原因不明でした。

ところが1ケ月ほど続いた3月末に、路上歩行中に、突然失神し、転倒し、後頭部を強打し、気が付いたら通りがかりの人に介抱されていました。救急車で病院に搬送され診察を受けましたが、原因不明でした。4月末にも今度は風呂場で失神、転倒しました。

各種検査を受け、奇病の原因は不明のままですが、洞不全症候群の症状があるとのことで、ペースメーカー手術を強く勧められたけど、今更手術もどうかと思い辞退しました。

私の持っている寿命に任せたいというのが現在の心境です。